2013年 02月 01日
パッパニーニョの独り言2
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2.「ドイツサッカー界名将との出会い」
〜大寒波に堪えた出会い・大きく変わった私の人生〜
いやー、寒いというより痛かった。
私は三菱(現浦和レッズ)の監督になった翌年の1968年2月「若手育成の為ブンデスリーガで研修させたい」との思いからその派遣先調査のためドイツに飛んだ。そしてなんの前ぶれもなく訪ねたのがボルシアMGだった。その年は何十年ぶりの大寒波が襲来し、普段は千人を超える人が練習を見守るようだが、余りの寒さに毎日2回の練習の見学者は私一人だった。ネッツァーやフォクツ等の主力選手が凍てつくグランドで必死に練習する姿に感動した。
5日目の金曜日が大袈裟でなく「私の人生を大きく変えた日」となった。バイスバイラー監督が厳格な顔つきで私に近寄り一言「クラブハウスにいらっしゃい」と呼びかけてくれた。寒さの極限から解放された暖炉の温もりとサービスのコーヒーとケーキの味は格別だった。待つこと30分、バイスバイラーがグランドとは別人の様な優しさがほとばしり出る笑顔で現れた。私は慌てて自己紹介し、サッカー歴・訪問目的等を一気に説明した。翌日が試合で会話はそれ以上発展しなかったが、試合に招待され、「ゲームの後に食事をしながらゆっくり話そう。」と誘われた。
この出会いは決して偶発的、運命的出会いではなく、確り準備された出会いだったように思う。
アウェーゲームに快勝した後に向かった先は彼の故郷ケルン。アウトバーンで250㎞を超えるスピードを初体験。肝を冷やしながらたどり着いた先はケルナドーム横のレストラン。名物のアイスバインを肴に地ビールとシュナップスを楽しみながらその日の試合をテーマに語り合った。片言のドイツ語を英語で補足する会話だったが、サッカーという共通語があったため何不自由なく十分に意志の疎通が図れた。
次のテーマは「若手育成の為の研修先調査」という私の訪問目的だった。彼はタレント発掘、育成のスペシャリストと評された監督で、三菱チームの事情や私の要望をただひたすら聞いていたが明確な返事はなかった。
彼はドイツ人の中でも酒豪中の酒豪。私は日本人の平均レベル。その夜は興奮のあまりか泥酔する事はなかったが、気がつくと午前2時を回っていた。お開きを促しホテルを依頼すると「予約済み」との返事、まだ客足が衰えないレストランを後にした。驚いた事にそのホテルとは彼の自宅の事だった。
その夜はそのまま熟睡、翌朝早くに目が覚めた。彼は既に起きており「今日からウチに泊まりなさい。」とさらりと一言。いくら図々しい私でも初対面の方の家に2ヶ月もお世話になれないと固辞すると「昨夜君は若い選手の指導を学びに来た!と言ったね。」とゆったりコーヒーを飲みながら彼の指導理念をポツリポツリと語り出した。
ーーー 今、柔道女子選手達に対する指導、体罰問題が日本国中を駆け巡っているが、私はこの時の話を思い出した。国民性、宗教観、地域社会とスポーツの関わり方の違いなど、社会環境や歴史の違いはあるものの大変示唆に富んだ教育理念と思うので、また今後の独り言で触れてみたい。 ーーー
「私と一緒に生活しながら理論ではなく実生活を通し自らヒントをつかみなさい。これがドイツのマイスター制度だ!」と説得され、結局まるまる2ケ月間お世話になった。
この出会いがサッカーの師弟関係を超え、人に「私の息子、Hiroshi」と紹介し、家族の一員として受け入れられるきっかけになろうとは夢にも思わなかった。
(3に続く)
〜大寒波に堪えた出会い・大きく変わった私の人生〜
いやー、寒いというより痛かった。
私は三菱(現浦和レッズ)の監督になった翌年の1968年2月「若手育成の為ブンデスリーガで研修させたい」との思いからその派遣先調査のためドイツに飛んだ。そしてなんの前ぶれもなく訪ねたのがボルシアMGだった。その年は何十年ぶりの大寒波が襲来し、普段は千人を超える人が練習を見守るようだが、余りの寒さに毎日2回の練習の見学者は私一人だった。ネッツァーやフォクツ等の主力選手が凍てつくグランドで必死に練習する姿に感動した。
5日目の金曜日が大袈裟でなく「私の人生を大きく変えた日」となった。バイスバイラー監督が厳格な顔つきで私に近寄り一言「クラブハウスにいらっしゃい」と呼びかけてくれた。寒さの極限から解放された暖炉の温もりとサービスのコーヒーとケーキの味は格別だった。待つこと30分、バイスバイラーがグランドとは別人の様な優しさがほとばしり出る笑顔で現れた。私は慌てて自己紹介し、サッカー歴・訪問目的等を一気に説明した。翌日が試合で会話はそれ以上発展しなかったが、試合に招待され、「ゲームの後に食事をしながらゆっくり話そう。」と誘われた。
この出会いは決して偶発的、運命的出会いではなく、確り準備された出会いだったように思う。
アウェーゲームに快勝した後に向かった先は彼の故郷ケルン。アウトバーンで250㎞を超えるスピードを初体験。肝を冷やしながらたどり着いた先はケルナドーム横のレストラン。名物のアイスバインを肴に地ビールとシュナップスを楽しみながらその日の試合をテーマに語り合った。片言のドイツ語を英語で補足する会話だったが、サッカーという共通語があったため何不自由なく十分に意志の疎通が図れた。
次のテーマは「若手育成の為の研修先調査」という私の訪問目的だった。彼はタレント発掘、育成のスペシャリストと評された監督で、三菱チームの事情や私の要望をただひたすら聞いていたが明確な返事はなかった。
彼はドイツ人の中でも酒豪中の酒豪。私は日本人の平均レベル。その夜は興奮のあまりか泥酔する事はなかったが、気がつくと午前2時を回っていた。お開きを促しホテルを依頼すると「予約済み」との返事、まだ客足が衰えないレストランを後にした。驚いた事にそのホテルとは彼の自宅の事だった。
その夜はそのまま熟睡、翌朝早くに目が覚めた。彼は既に起きており「今日からウチに泊まりなさい。」とさらりと一言。いくら図々しい私でも初対面の方の家に2ヶ月もお世話になれないと固辞すると「昨夜君は若い選手の指導を学びに来た!と言ったね。」とゆったりコーヒーを飲みながら彼の指導理念をポツリポツリと語り出した。
ーーー 今、柔道女子選手達に対する指導、体罰問題が日本国中を駆け巡っているが、私はこの時の話を思い出した。国民性、宗教観、地域社会とスポーツの関わり方の違いなど、社会環境や歴史の違いはあるものの大変示唆に富んだ教育理念と思うので、また今後の独り言で触れてみたい。 ーーー
「私と一緒に生活しながら理論ではなく実生活を通し自らヒントをつかみなさい。これがドイツのマイスター制度だ!」と説得され、結局まるまる2ケ月間お世話になった。
この出会いがサッカーの師弟関係を超え、人に「私の息子、Hiroshi」と紹介し、家族の一員として受け入れられるきっかけになろうとは夢にも思わなかった。
(3に続く)
by pappanino
| 2013-02-01 15:25
| サッカー